筋肉少女帯を聞けぃっ!
保管してたMP3が壊滅的なダメージ食らってたんで再エンコ中のVesselである。
久しぶりにCD引っ張り出して筋肉少女帯を聞いたら、なんか懐かしくなってきてしまった…
筋肉少女帯。日本人の歌を余り聴かない(最近良く聞くのはThe Blues Brothersやエンヤ)私が聞くことの出来る数少ない日本人バンド。ちなみに私が聞くことの出来る日本人の歌って「聖飢魔II」と「浜田省吾」、「筋肉少女帯」ぐらいだ。
この中で、聖飢魔IIと浜田省吾は「怨念ソング」とか暗いイメージが共通しそうだが筋肉少女帯は世間様的に「コミックバンド」、最大限譲歩しても「高木ブーの歌」歌ってるバンドというイメージが強いと思う。全然前二つのイメージに繋がらないだろう。そこで、今回は溢れて零れる筋少の魅力を語ってみたいと思う。
「高木ブー伝説の悲劇」
筋肉少女帯はバンドブーム時(1980年代)に「少し珍奇な詩をかっちょいい音楽に乗せて歌うオタクの居るバンド」として生まれた。メジャーデビュー最初のアルバム「仏陀L」の頭の曲は「モーレツ ア太郎」…題名だけ聞いたらTVアニメの主題歌かと思ってしまう…つーか若い衆は「モーレツ ア太郎」知らんかもな…ググレ
ギターはえらいカッコいいんだがな…
この辺では余りメジャーじゃなかったんだが、大槻ケンジが音楽以外で色々メディアに露出して段々知名度を上げ、その時にリリースされたアルバム「サーカス団パノラマ島へ帰る」が不味かった。このアルバムは全体を通して一つの物語になるように曲が配置されており、最後のシメで「元祖 高木ブー伝説」が流れるのである。
「サーカス団パノラマ島へ帰る」リスト
サーカスの来た日
ビッキー・ホリデーの唄
詩人オウムの世界
労働者 M
アメリカン・ショートヘアーの少年
23の瞳
電波Boogie
パノラマ島へ帰る
航海の日
また会えたらいいね
お別れの日
元祖 高木ブー伝説
各所で語られている通りこの「元祖 高木ブー伝説」はコミックソングではなくマジで失恋の歌なのである。まず歌詞を読め!
→http://www.kids.co.jp/King-Show/disco/html/boo.html
大槻ケンジという詩人は、非常に微妙な表現を普段自分で使っているであろう語彙で実行する変わり者である。この「伝説」でもこの様な表現方法を使っている。
「苔のむすまでに 愛し合うはずの二人が
予定調和の中で 離れ離れになる
何も出来ないで 別れを見ていた俺は
まるで無力な俺は まるでまるで高木ブーのようじゃないか」
昔、8時だよ全員集合をリアルタイムで見ていた人間はこの「まるで高木ブー」のフレーズにその切なさ悲しさ等を感じ取れるのではないだろうか?
大槻ケンジと言う才能は、この彼の詩の特異性から「同時代を生きた人間に対して最も効果的」な詩を書けるのだが…時代が違うと微妙に引っかからない点がある。
そもそも大槻はかなり「変な方向に」博学なのだ。詩のフレーズで引用されるセンテンスの数々にも、彼の(オタクな)教養が溢れているし、作品の方向性はかなり純文学に近い所に迫る事もある。そして大槻は脆弱な精神部分も純文学系の作家に似ていた。
「自分はロックで、純文の好きなオタク」であると認識してもらいたいのだが、世間では筋肉少女帯を「コミックバンド」としてしか見てくれない。(あんな題名の作品出してたら当たり前だ)ここで大槻は鬱になる。
「大槻の復活」
ブンガクっぽく挫折を経験した大槻は行きつ戻りつ模索を開始する。メンバーも入れ変わったり、医者にUFO禁止令を出されたりしたが、所々で非常に多感で繊細な作品を作成し、多くのファンの心を掴んだ。
この時点で、私の大好きな曲「踊るダメ人間」が発表される。
この曲を語っている人間は、見まごうことなく「大槻ケンジ」その人である。
そして、その前の鬱があったからこそ…最後のワンセンテンス「それでも生きていかざるをえない!」が心に響くのだ。
アルバム「筋少の大車輪」では先の「踊るダメ人間」に加えて「これでいいのだ」という私の好きな曲(つか、語りだよな…これ…)が加わり、復活したんだか戻ったんだか訳の判らない状況が…
「これでいいのか? これでいいのだ
これでいいのか? これでいいのだ」(「これでいいのだ」より)
この歌詞の中で大槻は「流れに飲まれ、誤解され、耐え忍んだ先に悟りを開きかける」心情の吐露を行っている。
大車輪の次のアルバムではそれまで後ろ向きに「生きていかざるを得ない」と言っていた人間が、もう少し前向きに生きる意志を持ち始める。
「生きてあげようかな」 (Wording 大槻ケンジ)
次に飛行機を見たら
少女は死のうと決めた
失恋だとか通俗な理由(わけ)
好きな本の間に
カミソリ隠し街へ
空は暮れかけ
飛行機は無く
浮かぶのはイメージ
枯れてくポプラ 沈んだデコイ
悲観的な映画 似てない似顔絵
死んだピアニストの未完成の曲
代わりに私が生きてあげようかな
浮かぶのはイメージ
落ちたヘリコプター 狂った時計
くだらない友達 救えない神様
横抱きのまま売られた子供
代わりに私が生きてあげようかな
「思いとどまった少女
だがしかし
彼女の恋するやさ男は
理由(わけ)あってすでに天国にいた
ひねもす男は下界の少女を見守っていたのだ
空の上からは少女の頭しか見えない
いいお天気だからもう少し生きてみようと
彼女が天をあおぐその時だけ
瞳を見ることができるのだ
だからなるだけ上を向いてお歩きなさい
それから
あまり甘い物ばかり食べ過ぎぬように」
もうすぐ月が出たら
家へ戻ろうと決めた
少女の上を いま飛行機が
静かに横切った
題名の「生きてあげようかな」は自殺願望のある知人に大槻自ら送った言葉「生きねばならんと考えるのではなく、生きてあげようかなと考える」(適当に書きました。多分原文はも少し違った感じです)から取られていると聞いている。ただ、当時の状況から考えてこの言葉は友人にのみ送った言葉ではなく、自分自身を鼓舞する意味合いでも語られたのだと思う。
「最盛期?」
この次辺りの時期が、私にとって筋肉少女帯絶頂期と言えなくも無い。特に大槻の語る恋愛観、愛の形に関するフレーズに私は非常に感銘を受けた。
「君よ!俺で変われ」
前出の「これでいいのだ」で恋人にまで「罪は罪だと思うの!」と言われて言い返せなかった男を歌った男が…ここまで亭主関白になれるとは…(違
「暴いておやりよドルバッキー」
彼女の耳元で彼氏は言った
誰よりも何よりも 君を愛しているからね
ホラ そんなキレイごとを言うと
四丁目の角からバッキーが来ちゃうぞ
「お二人さん!恋愛ゲームでなぐさめ合うつもりだニャー
本当に愛なのかい?」
至言
「香菜、頭をよくしてあげよう」
香菜、君の頭
僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに
君がおびえぬように
香菜、明日、君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を、
君に選んであげよう
香菜、いつか恋も
終わりが来るのだから
香菜、一人ででも
生きていけるように
与える愛。生きる事は驚きと悲しみと喜びの連続であり、時に人は人生に怯え、社会に怯える。そんな人の頭を良くして上げる事。人生とは何かを知る事が出来る様に配慮する事。どろどろした情愛ではないが、これもまた一つ「愛」の形だろう。
親が子に与えるような愛。おっさん化した今、凄くこの愛の形に感銘を受ける。
(若い時分は「やりたい」が先に立ってど〜しよ〜も無いからねぇ…)
「トゥルー・ロマンス」
愛犬が死んだ時に、私はこの歌詞の意味を知ったように思う。
愛犬が再度、私の元に訪れるのなら、どろどろのゾンビでも構わない。
汁が付こうが何しようが全然気にしないだろうな…体洗って包帯巻いてやって…食事を与え、共に散歩に行くだろう。残念ながら死んだものは生き返らず、向こうがこっちに来てくれる事は無いので…暫し寂しい思いをさせるが、60年も経てば俺も見事な遺骨の仲間入り。地獄でも天国でも構わんから愛犬達と一緒にもう一度散歩する。絶対。
そして、大槻の真骨頂…愛する者との別れの歌
「機械」
も〜どんな方法でも良いからまず聞け! それから筋肉少女隊がコミックバンドかどうか判断スレ!
「リルカの葬列」
明るい曲調、しかし歌詞は…
「小さな恋のメロディ」
いや、ちがう
我々が思うほど
この世界は
哀しくプログラムされちゃいない
何より もうこれ以上
君の周りに 不幸の存在を
俺は認めない。
つ…強くなったなぁ…世界を見る眼も少し肯定的になったと思う…
さ、ここまで見て聞いて…そこから大槻及び筋肉少女帯がオタクだとかコミックバンドだとか言ってくれ。曲や音楽は折り紙付き。出来ればCD買えよ〜(苦笑